Mag-log in志田成美、彼女は陽太がまだ何者でもなかった学生時代に、ただ一人本気で恋をした女。
そして、彼の前から黙って姿を消した女だった。彼女は、儚げな人だった。私とは何もかもが正反対の。守ってあげなければ今にも壊れてしまいそうな、潤んだ瞳。風が吹けば飛んでいきそうな、頼りない肩。陽太は成美を前にすると、人が変わったように優しくなった。まるで、置き去りにしてきた青春を、もう一度やり直そうとするみたいに。
成美が「経営のことは、私、何も分からなくて」と困ったように睫毛を伏せれば、陽太は嬉々として手を差し伸べた。私が十年かけて整えてきた会議の段取りを後回しにしてまで、彼女のために時間を割いた。
私は、何も言えなかった。だって私は——強いから。一人でも、平気だから。
いつからか、それが陽太の口癖になっていた。『結月は強いから、これくらい平気だろ』
『成美はお前と違って繊細なんだ。少しは察してやってくれよ』
私は彼の理解者であろうとした。物分かりのいい、聞き分けのいい妻であろうと努力した。けれど、与えれば与えるほど、彼の心は私から遠ざかっていった。皮肉な話だ。尽くすことでしか愛をつなぎとめられないと信じていた私は、尽くすことで、自分の居場所を失っていったのだから。
そして、あの日が来た。
役員会の席で、陽太は私を名ばかりの子会社へ追いやることを告げた。私が築き上げた取締役のポストには、経営の「け」の字も知らない成美が座ることになった。
信じられない思いで見つめる私に、陽太は、まるで明日の天気の話でもするように、軽く笑って言ったのだ。
『結月は強いから、一人でも平気だろ。成美は僕が傍にいなきゃだめなんだ』
そこからは、坂道を転げ落ちる小石のように早かった。
私名義だったはずの株式は、巧妙にすり替えられた書類の束の中で、いつの間にか一条のものになっていた。私を守るはずだった財界の人脈は、私の悪口を吹聴されたせいで陽太の側へと流れていった。手のひらを返す音さえ聞こえないほど、それは滑らかだった。
そして——白峰の家までもが彼らの手に落ちた。
父の死後、傾きかけた実家を「僕が立て直す」と言って近づいてきた陽太に、私は最後の砦まで委ねてしまっていた。気づいたときにはもう遅かった。白峰の名を冠していた建物の表札は、一枚残らず、一条の名に書き換えられていた。
私には何も残らなかった。資産も。地位も。名前も。そして、愛も。
なぜなら、結婚していたと思っていた夫とは、婚姻関係の事実もなく、すべてを夫だと思っていた男とその女に奪われた。彼は私の夫ですらなかった。
——そうして、今。
「強いから平気だろう」と言われ続けた女は、すべてを奪われ、たった一人で死の淵に立っている。
窓の外で、誰かの楽しげな笑い声が遠く響いた。世界は、何ひとつ変わらず回り続けている。私がたった一人で消えていくこの瞬間にも、どこかで誰かは恋に落ち、誰かは祝杯をあげているのだ。それが、どうしようもなく、悲しかった。
悔しい。こんな陳腐な言葉で足りるのかと、自分を笑いたくなるほどに。
本当に悔やんでいるのは、尽くしたことじゃない。気づいていたのに、見て見ぬふりをしたことだ。初恋の女の前で、少年のような顔に戻っていく陽太に。「強いから」という言葉の裏に隠された、私への、ゆるやかな切り捨てに。
父は最期まで私を案じていたのに、その言葉にも耳を貸せないところまで来ていた。
私は、認めたくなかった。
『結月、お前は誰かに寄りかかることを覚えなさい。一人で何もかも抱え込む強さは、いつかお前自身を殺すよ』 病床でそう言い残した父の言葉の、本当の意味を、私は今、こんな形で噛みしめている。愛した男に愛されたかった――ただそれだけなのに。
けれど私は、愛を乞う方法を知らなかった。与えることでしか、自分の存在価値を証明できなかった。それが、白峰結月という女の、最大の弱さであり——そして、最大の罪だったのだ。 もし。もし、もう一度あの日に戻れたなら。今度こそ、私は——。 胸の奥の熱が、急速に冷えていくのが分かった。唯一残っていた感覚さえ、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。天井のしみが、ぼやけて、滲んで、白く溶けていく。ああ、終わるのか。こんな、何もない場所で。たった一人で。
最後に胸に浮かんだのは、不思議と、復讐でも未練でもなかった。ただ静かな、たった一つの願い。
——次があるなら。今度こそ、私は、私のために生きる。
意識が暗転した。
帝の言葉が鼓膜に絡みつく。かつての冷酷な氷の帝王からは想像もできない柔らかな声。そのアンバランスさが理性をさらに揺さぶる。 「っ……!」 なにか言いたげに唇が僅かに動いた。その微かな変化を見逃さなかった帝が、更に私の膝を持ち上げる。視界を埋めるのは彼の欲望に滾った肉体のみ。外界から遮断されたベッド(ここ)はまさに「檻」そのものだ。 「聞こえない」帝の笑みには残酷な優しさが混じる。「言え、結月」 「……っ……嫌…!」 必死の抵抗だったが、次の瞬間帝の指先が再び動き始める。今度は深い部分を探るように、執拗に円を描く。 「ひゃうぅっ!?」 突然の刺激に背筋が仰け反る。私がいい反応をする場所を、彼はもう完全に把握していた。さっきまで散々弄ばれ、絶頂に導かれた体は嘘をつけない。 「嘘つきは罰が必要だ」帝の囁きが耳朶を掠める。「もっと大きな声で言うんだ。『俺が好きだ』と」 きゅっと唇を結んで抵抗する。でも、入り口を広げられ、物欲しそうに彼を待ちわびるいやらしい唇は、嘘がつけない。 帝の指先が下腹部を撫でる。震えが手のひらを通じて伝わってくるのを楽しむように。蜜をまとった指が退くと同時に、熱い楔が入口に触れた。いよいよ来てもらえる――はしたなく私の体が悦んだ。 「嫌がるわりには、ここは準備ができているみたいだな?」 嘲笑うような言葉と共に帝が侵入を始める。 認めないと挿れないと言っていたのに、なぜ――? 「あぁっ───!!」 圧倒的な衝撃に視界が白く染まる。苦痛と甘美が渾然一体となった感覚が脊髄を駆け上がる。彼の侵入は拒絶するどころか体は歓迎していて、疼くような快感が瞬く間に押し寄せた。 「あ……あ…んっ!」 帝は動かない。結合部をじっくりと味わうように腰を押し付けたまま、私の表情を見つめている。羞恥と困惑に染まっていく。たぶん彼は気づいているはず。私が物欲しそうにあなたを見つめていること―― 「どうした? 動いて欲しいのか?」
彼の額に浮かんだ汗の粒が光っていた。その姿は私を征服しようとする雄でありながら、どこか苦しげで。愛おしい。 「帝……」 私の呼びかけに応えるように、彼がゆっくりと動き始める。最初は探るように、次第に深く──。 以前あなたと交わった時とは全く違う感覚が全身を駆け巡る。単なる肉体の結合ではない。まるで魂の一部を奪われるような…… 「あぁっ……!」 喉から漏れる声が制御できない。彼の指が私の頬を撫でる。「どうした結月? 今日は随分かわいいこえで啼くんだな」 その問いに顔が火照るのが分かる。図星を突かれた恥ずかしさと同時に、確かに違うと感じる真実があった。 「んんっ……!」 言葉を紡ぐ暇もなく、彼の唇が私のそれを塞ぐ。舌が絡み合う音が響く中で、彼の腰の動きが加速する。ベッドのスプリングが悲鳴を上げるほど激しく、そして正確に私の弱点を抉ってくる。 「もっと乱れてみろ……結月」彼の荒い息遣いが耳元で囁く。「君の全てを見せてみろ」 むき出しになった肌を彼はまるで舐めつくすかのように、すべての部分に舌を這わせる。恥ずかしい部位でもおかまいなく。 足を広げられ、花芯を舐められると、とんでもない悲鳴が口をつく。彼の唇が触れるたびに電流のような刺激が全身を駆け抜けた。腰が無意識に跳ね上がり、逃げるそぶりを見せたが、帝の強靭な両脚がそれを許さない。 「……っ! んぁ……ああっ……!!」 羞恥と快楽で涙があふれ視界が歪む。こんな浅ましい声を出してしまう自分が情けないのに──彼の舌先が最も敏感な突起を軽く弾く度に、抗う意志さえ砕かれていく。もう彼以外何も考えられない。 「ひどいですわ……こんな……帝……いやっ、いやぁ……あぁ……――!」 抗議の言葉も甘ったるい吐息に変わってしまう。彼の頭部を押さえる手指には力が入らないどころか、むしろ押し付けてしまいそうな自分に戸惑いすら感じる。彼は顔を離さないまま低く笑った。 「も
私と彼を乗せた車は、都内でも指折りの高級ホテルで停まった。彼に抱きかかえられたまま、ホテルの最上階まであっという間に運ばれた。 静まり返った室内。窓の外には、都会の煌めく夜景がどこまでも広がり、眼下の喧騒を遠くへ置き去りにしている。 前世で信じた男に裏切られ、冷たい地獄に落とされた私。 けれど今、私を抱きしめているこの男の腕は、恐ろしいほどに熱く、私を逃がそうとしない。 彼に囚われることが『檻』なのだとしたら――その檻は、なんて甘く心地よいのだろう。 帝は私をそっと、けれど逃げ出せないように深くベッドの上へと降ろした。 沈み込むシーツ。その上に覆いかぶさってくる彼の逞しい身体と、上質なセットアップから漂う爽やかなシダーウッドの香り。 「食事は君を抱いた後だ」「嫌だと言ってもやめてくれませんわよね?」「嫌じゃないはずだ」 噛みつくような激しい口づけに見舞われた。「……逃がさないと言っただろう、結月」「逃げようなどと……思っておりませんわ」 私がフッと微笑んで見せると、帝の漆黒の瞳が息を呑むように揺れた。 彼の手がワンピースのファスナーを滑らかに下ろしていく。肌を撫でる冷たい夜気と、それを一瞬で塗り替える彼の
「ひっ……ひぃぃぃぃっ! 待って、待ってくれ結月ぃぃいいいッッッ!!」 アスファルトの上で無様に転倒し、鼻血と涙を撒き散らしながら叫ぶ一条陽太の姿が、流れる夜景の中に遠ざかり、やがて完全に消え去った。 私から奪い取ったはずのオフィスも、自慢の資金力も、幼馴染との浮かれた時間も……すべてがストップ高という市場の暴風雨によって一瞬で吹き飛び、奴は今まさに人生最大の絶望の底にいる。 しかも結月とか呼び捨てにして。 私、今世ではあなたと関わらないようにこれでも努力してきたつもりだけど? 地べたを這いつくばって、許しを請うつもりでいるのかしら。「……ふふっ」 私の唇からフッと小さな冷笑が漏れた。「何か気になるものでもあったか?」 隣に座る帝が私の手をぎゅっと握り直して覗き込んでくる。 私は窓の外の惨めな害虫を思っていたけれど、それを忘れるように帝の逞しい肩にちょんと自分の頭を預けた。 「いいえ。哀れな害虫の末路を想像しただけですわ」「そうか」 帝は満足そうに口角を上げると、私の肩を優しく抱き寄せ、髪にそっと深いキスを落と
――そして、地獄が始まった。 オフィスにかかってきた電話は証券会社の担当の男だった。資金は大丈夫か、というので「無問題」と答えておいた。 前世の記憶持ちの俺様が、無様な姿を見せるわけにはいかない。それに、空売りしているものを買い戻せばいい話。益は減ってしまうが仕方ない。 というわけで翌日、前日のストップ高を受け、白峰ホールディングスの株価は朝の寄り付きから「買気配(買い注文が殺到して値がつかない状態)」のまま一切動かない。 空売りのポジションを解消するには、誰かが株を売ってくれなければ「買い戻し」ができない。だが、謎の圧倒的な資金力で板が買い占められているため、売り手など存在するはずもなかった。 この日も一度も売買が成立することなく、ストップ高張り付き(配分)で取引終了。 どーなってやがるんだ!? こんなの前世にはなかった動きだぞ!!!! 頼む頼む頼む! 明日には板剥がれして、どうか俺に買い戻させてちょんまげ~!! 連日のストップ高により、東証のルールに基づき「値幅制限(ストップ高の上限)」が4倍に拡大。 株価は垂直跳びのように跳ね上がり、俺の画面に表示される含み損の赤字は、マイナス10億、30億、50億……と、鬼のような勢いで膨らんでいく。「買い戻させてくれ!! 頼むから買い戻させてくれぇぇええっっ!!」 PCの前で髪をかきむしり、叫び続けても、市場は無情にも「買気配」のまま。 逃げ道のない完全な密室で、自分の首に巻きついたロープがどんどん締め上げられていく感覚。 そしてストップ高のまま週末を迎えた。『一条様。証券会社です』 受話器から聞こえてくるのは、氷のように冷酷な担当者の声。『連日の株価急暴騰を受け、お預かりしていた証拠金は完全に相殺され、現在30億円の未解消の差し引き損失が発生しております。翌営業日(月曜日)の15時までに指定口座へ追証(追加証拠金)の入金が確認できない場合、全ポジションの強制決済、ならびに即座に資産の差し押さえ手続きに移行いたします』「さ、30億……!? そんな金、どこにあるんだよぉぉおおっっ!!」『お支払いに応じられない場合、契約に基づき破産手続き、ならびに刑事告発・法的措置へと移行いたします』 ガチャリ。 金曜日の15時。市場が閉まると同時に、俺の数十億のあぶく銭は完璧なゼロどころか、生涯
「ふ……ふざけんなっ! なんでストップ高なんかにっ……!!」 わなわなと体が震える。このままじゃまずい。どうしよう。「陽太くーん、『ストップ高』ってなに? もしかしてお金が増えたの?」 ソファーの上で、成美が首をかしげながら呑気に聞いてくる。普通の状態だと、ストップ高というのは株価にとっていいものだ。だから儲かったと思うのは当然だろう。しかし―― 俺の脳内は、恐怖と混乱で完全にパニックを起こしていた。「増えてないんだよ!!」俺は成美に向かって声を荒げてしまった。「ストップ高ってのは、株価が限界突破して大暴騰したってことだ!! 空売りしてる俺にとっては、含み損が無限大に膨らんでるんだよっ!!」「え……? 含み損……? それって損したってこと?」「クソッ、注文が通らない! 市場が閉まってるからな……。いや待て、明日もストップ高で寄り付かなかったら……俺の数十億が、一瞬で吹き飛ぶ……!?」 ガタガタと震える手でキーボードを叩くが、15時に閉まった市場はビクともしない。 冷や汗が吹き出し、膝が笑ってガクガクと崩れ落ちそうになる。 その時だ。 さっきまで「陽太くん♡」と甘い声を上げて俺の
それどころか、前世の一条グループじゃ逆立ちしても手が届かなかった財界のドン・武藤会長に自分からすり寄って、なんかクソ難しそうな半導体の話をして、あっという間に気に入られてやがる。 俺にわからねえ話で盛り上がるなんて……生意気だ!「おい、ふざけんなよ……! なんであいつ、俺をあんなゴミを見るような目で見たんだよ……っ!?」
「な、んでだよ……っ!!」 俺は、武藤会長を連れて女王様みたいに華やかに去っていく白峰結月の後ろ姿を、ただ口を開けて見つめることしかできなかった。 驚きとパニックに、名刺入れを握る指先がみっともなくガタガタと震える。 周囲の連中が「何だあいつ?」と俺をクスクス笑っている気配がして、顔がカッと熱くなった。 おかしい。こんなの絶対におかしい!
その困ったような笑顔。前世で私の心をいとも簡単に溶かしたあの顔。 不思議だった。あれほど焦がれた表情を前にしているのに、私の心は凍った湖のように静かだった。 手を伸ばして彼に武藤を紹介し、二言三言の助言を与えれば、彼はすぐに息を吹き返す。そしてまた、あの幸福で——その実、破滅へと続く十年が始まるのだ。 私はゆっくりと微笑んだ。 前世の私なら、ここで罪悪感に押し潰されていただろう。困っている人を見捨てる冷たい女だと、自分を責めたはずだ。けれど私を無情に切り捨てた男のために、これ以上、自分の優しさを安売りするのは——終わりにする。「ごめんなさい。人違いだと思いますわ」「えっ……
シャンデリアの光の下で、若き日の一条陽太は、滑稽なほど浮いていた。 仕立ての悪いスーツ。借り物のような笑顔。名刺入れを握りしめる指先は、誰の目にも分かるほど強張っている。この華やかな会場にいる誰もが、彼を「場違いな田舎者」として、視界の端で処理していた。 二十二歳の陽太。まだ、何者でもない。これから十年をかけて私を喰い尽くす牙も、初恋の女に狂って身を滅ぼす弱さも、その内側にすべて眠らせたまま、彼はただ、必死だった。 前世の私は、その姿に、どうしようもなく惹かれたのだ。磨けば光る原石だと、本気で信じた。そして、光らせてやれるのは自分だけだと——思い上がっていた。 今なら分かる。私が惹







