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第2話 死にゆく女

last update publish date: 2026-06-15 18:03:29

 志田成美、彼女は陽太がまだ何者でもなかった学生時代に、ただ一人本気で恋をした女。

 そして、彼の前から黙って姿を消した女だった。

 彼女は、儚げな人だった。私とは何もかもが正反対の。守ってあげなければ今にも壊れてしまいそうな、潤んだ瞳。風が吹けば飛んでいきそうな、頼りない肩。陽太は成美を前にすると、人が変わったように優しくなった。まるで、置き去りにしてきた青春を、もう一度やり直そうとするみたいに。

 成美が「経営のことは、私、何も分からなくて」と困ったように睫毛を伏せれば、陽太は嬉々として手を差し伸べた。私が十年かけて整えてきた会議の段取りを後回しにしてまで、彼女のために時間を割いた。

 私は、何も言えなかった。だって私は——強いから。一人でも、平気だから。

 いつからか、それが陽太の口癖になっていた。

『結月は強いから、これくらい平気だろ』

『成美はお前と違って繊細なんだ。少しは察してやってくれよ』

 私は彼の理解者であろうとした。物分かりのいい、聞き分けのいい妻であろうと努力した。けれど、与えれば与えるほど、彼の心は私から遠ざかっていった。皮肉な話だ。尽くすことでしか愛をつなぎとめられないと信じていた私は、尽くすことで、自分の居場所を失っていったのだから。

 そして、あの日が来た。

 役員会の席で、陽太は私を名ばかりの子会社へ追いやることを告げた。私が築き上げた取締役のポストには、経営の「け」の字も知らない成美が座ることになった。

 信じられない思いで見つめる私に、陽太は、まるで明日の天気の話でもするように、軽く笑って言ったのだ。

『結月は強いから、一人でも平気だろ。成美は僕が傍にいなきゃだめなんだ』

 そこからは、坂道を転げ落ちる小石のように早かった。

 私名義だったはずの株式は、巧妙にすり替えられた書類の束の中で、いつの間にか一条のものになっていた。私を守るはずだった財界の人脈は、私の悪口を吹聴されたせいで陽太の側へと流れていった。手のひらを返す音さえ聞こえないほど、それは滑らかだった。

 そして——白峰の家までもが彼らの手に落ちた。

 父の死後、傾きかけた実家を「僕が立て直す」と言って近づいてきた陽太に、私は最後の砦まで委ねてしまっていた。気づいたときにはもう遅かった。白峰の名を冠していた建物の表札は、一枚残らず、一条の名に書き換えられていた。

 私には何も残らなかった。資産も。地位も。名前も。そして、愛も。

 なぜなら、結婚していたと思っていた夫とは、婚姻関係の事実もなく、すべてを夫だと思っていた男とその女に奪われた。彼は私の夫ですらなかった。

——そうして、今。

「強いから平気だろう」と言われ続けた女は、すべてを奪われ、たった一人で死の淵に立っている。

 窓の外で、誰かの楽しげな笑い声が遠く響いた。世界は、何ひとつ変わらず回り続けている。私がたった一人で消えていくこの瞬間にも、どこかで誰かは恋に落ち、誰かは祝杯をあげているのだ。それが、どうしようもなく、悲しかった。

 悔しい。こんな陳腐な言葉で足りるのかと、自分を笑いたくなるほどに。

 本当に悔やんでいるのは、尽くしたことじゃない。気づいていたのに、見て見ぬふりをしたことだ。初恋の女の前で、少年のような顔に戻っていく陽太に。「強いから」という言葉の裏に隠された、私への、ゆるやかな切り捨てに。

 父は最期まで私を案じていたのに、その言葉にも耳を貸せないところまで来ていた。

 私は、認めたくなかった。

『結月、お前は誰かに寄りかかることを覚えなさい。一人で何もかも抱え込む強さは、いつかお前自身を殺すよ』

 病床でそう言い残した父の言葉の、本当の意味を、私は今、こんな形で噛みしめている。

 愛した男に愛されたかった――ただそれだけなのに。

 けれど私は、愛を乞う方法を知らなかった。与えることでしか、自分の存在価値を証明できなかった。それが、白峰結月という女の、最大の弱さであり——そして、最大の罪だったのだ。

 もし。もし、もう一度あの日に戻れたなら。今度こそ、私は——。

 胸の奥の熱が、急速に冷えていくのが分かった。唯一残っていた感覚さえ、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。

 天井のしみが、ぼやけて、滲んで、白く溶けていく。ああ、終わるのか。こんな、何もない場所で。たった一人で。

 最後に胸に浮かんだのは、不思議と、復讐でも未練でもなかった。ただ静かな、たった一つの願い。

——次があるなら。今度こそ、私は、私のために生きる。

 意識が暗転した。

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  • 死に戻り令嬢は、初恋を選んだ元婚約者が土下座しても絶対に許さない   第1話 奪われた女 Side:白峰結月

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